《コラム》14 「俳句」

投稿日:2015.04.01

「池口さん、俳句の会に入ってくださいな」 以前、新築をさせて頂いた施主様からの誘いで俳句の会へ入ることになってしまった。ただ、こういったカルチャー教室は初めてではない。  

二十年くらい前まで「豊岡写真サロン」という写真教室に随分長く在籍していたことがある。その時はうどん屋の主人から誘いを受けて入会した。その主人から「とにかく一年は辛抱して作品を持って来い」と言われて毎月の例会に五枚の写真を提出した。最初は酷評の連続であったが、一年間は辛抱すると決めていたのでじっと耐えた。次第に作品が認められるようになりコンテストにも入賞するようになってきた。そうなると面白くなって、のめり込んでいくのである。   その頃から但馬丹後の季節の移ろいの美しさはファインダーの中で感じていた。そして作品には必ず題を付けなくてはならない。いくら写真が良くても題名が伴っていなかったら作品としては認められない。文学の才能などかけらもない自分にその時何故か目に留まったのが「俳句小歳時記」である。水原秋櫻子編のその本の中には季節の言葉、つまり季語が沢山出てくる。その時は俳句に興味などなかったが、十七文字で季節を詠み表現することに感動を覚えた記憶がある。なんとなく写真と似たところがあるような気がしたものである。そしてこの度の句会の誘いをきっかけに本棚を見るとその時の「俳句小歳時記」がそこにあった。   「スナップ写真を撮るように情景を切り取ってください。俳句は写真と同じ、感性の表現です」と、初めての句会で先生に指導していただいた。自分が写真を趣味としている事をご存じで大変上手に導いて下さる優しい先生である。良い句を作る十か条も教えて頂いた。その中に、単純化されていること、感動、驚きが伝わること、というものがあった。それらを十七文字で表現するのである。実にシンプルである。考えてみれば日本の文化は共通してシンプルである。能舞台・茶室等は潔いほどに無駄を削ぎ落としている。単純化されているほど奥が深く省略と凝縮が相まみれ、そこから感動と驚きが表現される。全てを表現するのではなく、その奥にある事柄や情景を感性に訴えるのである。そこに日本人のアイデンティティーがある。 先生に「写真を撮るようになると、見えないものが見えるようになりました」と話すと「池口さん、俳句も同じですよ。俳句はことばによるデッサンです」という答えが返ってきた。文語表現に親しむことは少しでも品格を高めることになるのだろうか。    

「長閑さもあと一歩なり今日の風」   初めて特選をいただいた句である。

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